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著書と命題
機械の時代から生命の時代へ
−60年代以降の近代建築は時代を変えるムーブメントになり得るか−
建築家  黒川 紀章
2006.7.7
1959年のことであった。私は小論文「機械の時代から生命の時代へ」を書いた。
どの雑誌に寄稿したのか今となっては想い出すことはできないが・・・。

その前年のことである。当時の建築家や建築の学生にとっては教科書であり、世界の建築界のリーダー達のグループであるCIAM(世界建築連盟)が崩壊した。

当時私は東大大学院 丹下研究室にいた。
ル・コルビュジェから丹下先生のもとに一枚のレターのコピーが宛いた。そこには大人が子供を肩の上に立たせているスケッチと「次の世代へ」というメッセージが書いてあった。

そして最後の会議(第10回)を準備していた若い世代の建築家達のグループがその後新しい建築運動「チーム?](テン)」を結成することになる。
リーダーは、P.&A.、スミッソン、アルド・ヴァン・アイク、キャンディリス、そして、J.スターリン、C.アレキサンダー、ホライン、C.ジェンクス、と私が招待された。60年以降の新しい建築運動になるかに思われたが、長続きはしなかった。

この事件はこれからの建築家として歩みはじめようとする私にとっては天動説から地動説への転換に等しい大衝激であった。

これまでの時代が終わったとすれば次の時代はどのような時代なのか。
これまでの時代をどのように位置づけ、どのように名づけたらよいのか。
好むと好まざるとにかかわらず時代を読むという困難な状況に立たざるを得なかった。

二十世紀のはじめから1958年までの二十世紀前半には、さまざまな分野で新しい芸術運動や知の体系の変動が起き始めていた。構成主義、未来派、ピュリズム、構造主義などである。そして、明らかにそこには共通した時代の底辺に流れている「時代精神」があるように思えた。

コルビュジェは「住宅は住むための機械だ」と言った。映画監督のエイゼンシュタインは「映画は機械だ」と言った。未来派の詩人マリネッティは「詩は機械だ」と言った。構造主義のレヴィ・ストロースが注目されはじめていた。

次の時代のことはわからない。未来を措定して先へ進むしかない。

「機械の時代から生命の時代へ」というフレーズはこのようにして決めたものである。

機械と対比的なものとして生命を設定するのは比較しやすい仮説であるが、実は「生命の時代」のヒントは私の中学時代にさかのぼる。

私が中学、高校時代を過した名古屋の東海学園の学園長は、当時東京の芝増上寺の管長でもあった仏教思想家椎尾弁匡師であった。

師は大正十二年に「ともいき仏教」運動を設立した優れた仏教思想家であった。

私自身特に仏教と言う宗教に興味があったわけではないが、京都大学建築学科に進んだ後、日本の伝統的建築を学ぶためには、日本文化の底流にある仏教思想を学ぶ必要があると痛感することになる。椎尾師の「ともいき仏教」に再会するのもこの頃であり、中村元先生の「東洋人の思惟方法」に出会ったのもこの頃である。

大学で建築を学ぶ傍ら思索を深め、奈良や京都の古建築を巡る楽しい日々を過した。

仏教のルーツをたどるうちにインドの唯識思想にはじめて出会った。そもそも難解な思想であったが、直観的にこれだと感じた。当時唯識思想についての解説書はほとんどなく、サンスクリットの辞書を買ったり、英語の解説書を探した。

自宅にある茶室は「唯識庵」と名付けた。そして茶人としての名前は唯識庵空中である。私の著書「共生の思想」のルーツはこの唯識思想である。

明治以後日本の知の最前線は西欧の知の紹介へ軸足を移していたが、この傾向は戦後日本でも主流である。

小学生の10才の時、大都市が焼土となるのを目撃し、それまで学んだ日本の歴史の教科書に墨を塗る毎日を過した。それは私にとって「日本文化の否定」「東洋思想の否定」とも感じられて耐え難い気持ちを押さえることはできなかった。

私が焼失をまぬがれた古都にある京都大学への進学を強く希望し、仏教思想を含む東洋の知への関心を深めていったのはこの戦争体験そして戦後の欧米一辺倒の日本の知の状況への反発があった。このことは現在に至るまで私のぶれない思想的軸をなしている。

京都大学を卒業後、大学院の修士課程と博士課程を東京大学丹下研究室へ移籍した。作家としての建築家としての修行を始めるためである。

大学院で研究や著作に集中しながら他方で多くの未来都市のスケッチを書いていた。
当時から私が注目していたのは二十世紀前半の前衛運動、特にロシア・アバンギャルドとイタリアの未来派である。いずれもダイナミックな変化を求める運動で、芸術文化、知の領域に「時間」と「場」の概念を導入するという点で共通の運動であった。彼らはそのほとんどが完成作を残すことなく、若くして世を去っている。

仕事はなくても多くのスケッチを残し、思索を深めて本を書きたいという決意は彼らの生き方から大きく影響を受けている。

「機械の時代から生命の時代へ」という小論文を書いた1959年は、また1960年の世界デザイン会議への準備が始まった年であった。
建築家、都市計画家、工業デザイナー、グラフィックデザイナー、評論家等あらゆる分野の専門家が一堂に日本に集まるという、世界でもはじめての大がかりな国際会議であった。

この準備委員の一人として、事務局長の浅田孝先生をサポートする過程で生まれたのが「メタボリズム・グループ」である。
1960年世界デザイン会議で配布したのがメタボリズムの宣言「都市への提案1960」で、このメタボリズム運動はその後、世界で日本の前衛運動として知られるようになる。

メタボリズムとは生物学用語で新陳代謝・循環(リサイクル)という意味である。
生命の原理の重要なキイ・ワードである。
他方で共生も生命の原理の重要なキイ・ワードである。

中学時代に椎尾師からヒントとしていただいた「ともいき仏教」は仏教の重要な思想であるが、それが仏教思想といわれているかぎり、キリスト教文化、イスラム教文化、あるいはヒンズー教文化から見れば異教徒の文化ということになり、世界的なレベルで議論を拡げていくことがむつかしい。
できるかぎりの仏教思想という狭い枠組みからはなれて新しい知の最前線として構築することはできないか。このことが私をずっと悩ませていた問題である。

そこで1960年に私はともいき仏教の「ともいき」と生物学用語である「共棲(キョウセイ)」の両方の意味を複合させて「共生(キョウセイ)」を再定義した。英語では生物学用語の「Symbiosis」を使うこととした。

そして「共生」とは対立、競走し、矛盾しつつ同時にお互いを必要としている関係であると定義したのである。

それまであった日本語の「調和」「共存」「融合」「妥協」とは異なる新しい概念である。

この「共生」がその後46年を経て日本のみならず、世界で使われるようになった「共生」のはじまりである。

共生の思想のルーツは唯識思想にあると述べた。私が特に唯識思想に関心をもったのはもう一つ重要な視点がある。視点と言うよりはむしろ野心といった方がよい。

西欧の知の体系はアリストテレス、デカルト、カントに至るまで二元論をぬきにして論ずることはできない。二元論が西欧社会の文明化、近代化に果たした役割が大きいことは否定できないとしても、それを補うもう一つの東洋の知の体系はないものか。有と無の二元論を排して有も無も識(阿頼邪識)が表わされているにすぎないとする唯識思想こそ、東洋の知の体系ではないかという仮説である。

いずれにせよ共生もメタボリズム(新陳代謝・循環)も生命の原理のキイ・ワードであり、その後提案した情報、生態系(環境)、フラクタル、ホロニック、中間領域(曖昧性)、非中心性というキイ・ワードもすべて生命の原理を示すものである。

そしてこれらの思想的なキイ・ワードは、具体的な設計の手法としての様々なキイ・ワードを生み出していった。

それらの中にクラスター(細胞単位)、ネットワーク・シティー、道空間、中間体(コネクター)、共有空間(半公共空間)、花数奇、メガストラクチャー(スーパー・ドミノ)、メカニカルウェハー、環状構造(ループ・シティ)、生態回廊等がそれである。
1959年「機械の時代から生命の時代へ」と予言したときに二つのレベルで時代の変化を理解しようとしていた。
一つは社会的、経済的側面を含めた近代建築(近代主義)のパラダイム・シフトであり、もう一つは知的体系(思想界)あるいは各学問分野におけるパラダイム・シフトである。

1959年のル・コルビュジェのメッセージには近代建築がなぜ行き詰ったかについては何も触れていなかった。
当時フランスのボザール中心に様式的建築主流であった。
このアカデミズムに反抗して様式と装飾から建築を開放しようとしたのがバウハウスのグロピウスやミース・ファンデル・ローエであり、また孤高の闘いに挑んだル・コルビュジェ達であった。

工業化を目指す近代社会は経済・科学技術の飛躍的な発展をもたらした。
国際様式(インターナショナルスタイル)の目指す普遍性やミースの普遍的な空間(ユニバーサルスペース)は、やがては圧倒的な量産による工業化へと向かい、ル・コルビュジェ達の出番は失われていった。

この「機械の時代」の近代建築に代わる生命の時代の近代建築とは何か。

まず第一は、世界唯一の普遍的価値で均一化されてしまっていいのかという疑問である。
国際様式が伝統や文化、宗教の異なる国々に普遍化することは機械の時代の覇権主義ではないのか。ここで新しいキーワードとなるのが「場」の概念である。「場」のアイデンティティに新しい価値を認めるのならば、普遍性の国際様式に代わって「場」の共生の時代が始まる。それを私は国際様式(インターナショナルスタイル)に代わって共生様式(インターカルチュラルスタイル)と名付けた。

同じ時代(時間)に世界のあらゆる「場」に多様な価値が共生し、多様なことが起きている。これが「場」の共生(シンクロニシティ)である。

明治以来日本や発展途上国が西欧を手本にそれに少しでも近づこうとした時代、機械の時代の覇権主義の流れにのることが必要だったのだ。

日本における近代建築の発展も、このことと無関係ではない。

「場」の共生は地球上のあらゆる生物種の共生と同義である。「場」の共生とは地球環境の時代であり、森なくしては人類は生存できないということを認識する時代のはじまりである。それから30年ほど後の1992年のブラジルで開催された環境サミットで生物多様性条約が可決された。希少種の保存ばかりではなく、地球上で減少しつつある種の多様性を保持する目的である。

普遍性、そして人類による他の生物種への覇権主義の明らかな歴史的転換である。その時私は次の目標は文化多様性条約だと予感したが、しばらくして2005年12月フランスの主導でついに文化多様性条約が可決された。

種の多様性を維持するためには孤立した生態系の間を結ぶ生態回廊が重要な役割を果たす。

共生の思想の設計手法の一つとして都市計画の中でネットワークというコンセプトそして、生態回廊の計画を提唱しているのはこのような理由からである。

共生の思想の設計手法の一つとして中間領域、曖昧領域、共有空間、道空間というコンセプトがある。

共生の思想は、矛盾し対立しつつ、お互いを必要とする関係と定義し、調和、妥協、融合、共存というこれまで日本語として使われてきた概念と全く異なるものとした。

建築と自然の共生といった場合、自然は台風、地震、洪水など人間の生活をおびやかすものであり、又建築も又森を破壊してきた。
共生と一言で言っても容易なことではない。
異なる文化(宗教)の共生といっても容易なことではない。

そこで対立・矛盾する二者、又は複数の要素の間に中間領域、共有空間、緩衝地帯を置くことによって、時間をかけて共生を実現することができないか。

そもそも日本文化には中間領域の発想がある。「縁側」とか「間」」「曖昧性」がそれである。道空間(路地)も共有空間として独特なもので、公と私とを二元的に明確に分ける西欧の道路や広場と異なるものである。

1960年代に私が展開した道空間、道の建築とは、都市の中の伝統的な下町の路地が生命の時代には中間領域として重要な役割を果たすことを提唱したものである。

西陣労働センターは建築の中に道を作り、路地を建築化するものであったし、こどもの国、セントラルロッジ、アンデルセン記念館、大同生命東京ビル、そして福岡銀行本店、大阪国際会議場、フュージョンポリス、国立新美術館へと続いている。

1960年には「生命の時代」の多くの未来都市のスケッチを書いている。それらは中心部分の核(都心)があるはずの部分をボイド(非中心性)とし、ループ構造、環状都市(リングシティ)となっている。循環の原理であり、非中心性でもある。
例えば、クラスター(細胞)がこれである。行政サービス等の本来中心(都心)にあった核に代わって、クラスターの周辺部細胞の細胞膜の部分がサービス空間、道空間として細胞(クラスター)の増殖とともに伸びネットワークを形成していく。

これらの未来スケッチは、その後菱野ニュータウンや藤沢ニュータウン(湘南ライフタウン)として実現し、北サハラのアサリールニュータウン計画となり最近(2006年)中国鄭州市鄭東新区(人口150万人)の環状都市として第?T期が完成した。
建築では山形ハワイドリームランド、国立民族学博物館の細胞単位、六本木プリンスホテルへと続く。

中央のボイド・スペースを中間領域、共有空間、アトリウムとして計画する構想は山形ハワイドリームランド、寒河江市役所、国立民族学博物館、福岡銀行本店、京セラホテル、そして国立新美術館のへと続いている。

さて生命の時代の建築とは、同時代、同時間に異なる文化、異なるアイデンティティが共生する、「場」の共生(シンクロニシティ)だと述べた。

生命の時代の建築のもう一つの新しい局面は「時間」の共生ではないかと考えていた。過去、現在、未来の共生(ディアクロニシティ)である。
常に現在は歴史の発展形であり、現在は又未来への発展の動的な過程だとする発想である。

建築も都市もを永遠の芸術として、完成したら固定されるものではなく、未来へ向けて成長、増築、改築、発展するものと考えた。これがメタボリズム(新陳代謝・循環・リサイクル)というコンセプトである。

「機械の時代」はあまりにもすべてが現世的であり、生の肯定であり、唯物的であった。人間の肉体、建物の視覚的側面を強調し過ぎた。
当時私がマリリンモンローよりはデートリッヒを、歌麿の美人よりは鈴木晴信のそれを主張したのも同じ理由からである。

都市や建築を、クラスター(細胞単位)あるいは、カプセルという単位に一度解体して空間的にも時間的にも解放系の建築をつくることはできないか。

150年の期間を経て古書院、中書院、新書院と増築され、そのいずれの時代にも名建築であった桂離宮がメタボリズムの一つのテキストとなった。

ギリシャのパルテノンや、イタリアのビツェンツァのパラディオなど、西欧の傑作と言われた建築は、完成した時点で永遠性をもった完璧なものであり、増築など許されないのと対象である。

別の言い方をすれば、メタボリズムの建築とは、小さな建築のグループであり、メタボリズムの都市とは小さな都市の集合体である。
1959年〜1975年までの間に画いた数多くのスケッチは、未来都市、未来建築に関するものだ。細胞都市のスケッチは、都市とは小さな都市の集合体であることを表現しており、成長に従ってネットワークを構成する。

中心(都心)があり、核から外へと伸びるという放射状都市・木(ツリー)の構造、或いはピラミッド構造といってもよい。たえまなく都市は巨大化し、その都市の外側には郊外が拡がる。その圧力は、中心を過度に集中させる。近代(主義)都市の末路である。そして、内が都市、外側が自然という図式ともいえる。

これに対して生命の時代の都市、細胞都市のネットワークは自然をかかえ込みながら、ネットワークを構成し、都市のネットワークと自然のネットワークの共生が実現する。

1956年にワトソンはDNAの二重螺旋構造を発表した。生命にはある秩序構造があり、細胞間の連結・コミュニケーションは機会の歯車やベルトではなく情報である。
この事実は私にとって衝撃的な事実であった。
これが生命の原理だ。

「機械の連結は機械的であり、生命の連結は情報的である」とすると、「機械の時代は工業化社会であり、生命の時代は情報化社会である」と予見していいのではないかと考えたのが1960年である。当時世界に情報化社会という言葉(概念)すらなく、ポスト工業化社会という言葉で次の時代を語っていた。まるで建築界で語られるようになるポストモダンとそっくりだ。

ワトソンのDNAの二重螺旋構造を、未来都市に直接表現したのが、へリックス都市(1961年)である。クラスター(細胞)は、この場合、二重螺旋で立体的に増殖・成長できる。

成長発展する建築、循環・リサイクルできる建築は、小規模な場合には、細胞単位(カプセル、クラスター)を接続していく単純な方法で成立する。一戸建ての都市の郊外化も可能だし、スモールイズビューティフルのライフスタイルもよいだろう。小さな建築大歓迎、住宅作家がもてはやされるのもよいことだ。しかし大規模・都市的規模になると、どこかでサステナブルな地球環境を考えコンパクトな都市を実現する、メガストラクチャーが必要になるのではないか。森を都市の拡大から守らねばならない。そして柱とスラブで構成されるル・コルビュジェのドミノに対して当時私は、コアとスーパースラブによって構成されるスーパー・ドミノを考案した。

いまイギリスではスモール・イズ・ビューティフルの反省が始まっている。

地球環境との共生を考えると、自然をできるだけ残すというコンパクトな建築、都市という発想はいずれ必要になるときが来ると予測した。
これがコンパクトシティに向けて今世界で始まっているメガストラクチャー再評価の流れである。

DNAの二重螺旋構造は、このスーパーストラクチャー(スーパードミノ)である。

スーパーストラクチャーは、100年又は200年の耐久性のある人工土地であり、この上にとりつけられる建築、設備、生活空間は、25年〜60年の期間でリサイクルされるメタボリズムの建築である。1961年にDNAを象徴的に選んだのは、DNAのへリックスが工業化社会に代る、生命の時代、情報化社会の絶好の象徴だと考えたからである。

このスーパーストラクチャー(スーパードミノ)は1960年のK邸、1970年の中銀カプセルタワー、軽井沢K邸、こどもの国セントラルロッジ、ソニータワー、寒河江市庁舎、そして、シンガポールのフュージョンポリス、大阪府国際会議場、国立新美術館と続いている。

クラスターによるメタボリズムの建築、都市の計画も、大阪万博の東芝IHI館、タカラビューティリオン、空中カプセル、中銀カプセルタワー、筑波博の外国館、日東食品山形工場、山形ハワイドリームランド、東名足柄サービルエリア、熊本市博物館、国立民族学博物館、クアラルンプール新国際空港へと現在も続いている。

もう一つの重要な視点は1960年の、「機械の時代から生命の時代へ」の転換が実は、哲学の体系(知の最前線)の転換期でもあったことだ。

カント・デカルト・ヘーゲルと続いてきた伝統的な西欧の二元論は、機械の時代、そして工業化を目指す西欧の近代化を支えた哲学的底流であることは既に述べた通りである。

1960年前後を境に新しい哲学知の体系の流れが始まる。

フッサール、ハイデッガーの現象学、サルトルの実存主義、メルロポンティーの両義性の哲学がそれであり、そしてレヴィストロース、フーコーの構造主義へと受け継がれていく。

レヴィストロースは、西欧から世界を見る視点しかもたなかった西欧の形而上学に対して、「野生の思考」を著して西欧の知そのものを相対化(構造化)した。これらの新しい知の最前線に共通していえることは、二元論に代表される西欧の形而上学の自己批判である。そして更に現代新哲学は、記号論とポスト構造主義に代表される多様な知の体系へと向かっている。

この知の最前線を代表する人達がフーコー、デリダ、ロラン・バルト、クリステヴァ、ドゥルーズ/ガタリ達である。
デリダの「脱構築(デコンストラクション)」ドゥールーズガタリの「多数多様体(リゾーム)」という概念も造形など視覚点な側面よりは機械の時代の「普遍性」への強い批判となっている哲学である。
そして、新しい「生命の時代」への転換と一致する基本的視点となっているのは、次の5点である。
1. 反・人間中心主義
2. 反・西欧中心主義
3. 反・民族中心主義
4. 反・理性(ロゴス)中心主義
5. 非中心性(散逸的)
更にもう一つの別の視点でみると、機械の時代から生命の時代へのパラダイムシフトは、さまざまな学問の各分野でも始まっている。

ブルバキの体系から非ブルバキの体系への転換である。
ブルバキとは、フランスの数学者アンドレ・ヴェイユが名付けたもので、二元論の立場そして西欧の伝統的な形而上学的学問体系を保守する立場をいう。
ユークリッド幾何学、ニュートン力学、ラボアジエの化学、ダーウィンの進化論等がそれだ。
これに対して、60年代以降の生命の時代の学問体系は、ディビッド・ボームの「部分に内包された秩序」ケストラーの「ホロニックな構造」(部分と全体の共生)マンデンブローのフラクタル幾何学、ブリゴジーヌの散逸構造、ハーケンのシナジエティクス、アメリカの生物学会長も務めたマーグリスの「共生進化論」ディビット・ピートの「精神と物質との間の橋」(シンクロニシティ)、そして最近話題となった「複雑系の科学」等である。

これらに共通していえることは、いずれも知の最前線(新しい哲学)と連動して、「時間」の共生(デイアクロニシティ)、「場」の共生(シンクロニシティ)へそして共生の思想へと向かっていることだ。
特にダーウィンの進化論にみられる適者生存の覇権主義的思考を批判して、共生による進化を説えるマーグリスの共生進化論は「Time」や「News Week」も大きく採りあげたようにドラマティックなものである。

このように見てくると、60年代以後の近代建築が、このような時代の大きなパラダイムシフトと無関係であり得ない。

建築は、芸術文化の一つであり、芸術のように哲学・思想を語らずとも直観的に時代を見抜いて造型される名建築もある。
あるいはアルバート・アールトやライトの建築のように、風土性を一貫して表現する作家が、名建築を残している。ル・コルビュジェの向かった地点も個性の表現(ロンシャン)であった。
だから造型のみを対象とする批評も成立する。

しかし、生命の時代の建築、60年代以後の近代建築に求められているのは、時代を変える思想の表現であり時代精神を先取りする建築である。生命の時代には、正直であればあるほど、「場」が変われば、それぞれに別々の視覚的な造型の解があり、多様な素材の発見があり、多様な文化の造型があるべきである。

個人の個性的な造型や個人の個性的表現にこだわるのではなく、その作品が思想(時代精神)を表現するものであれば、それはいずれ世界を変える運動(ムーブメント)になる。

現在の近代建築には、あまりも思想(哲学)が欠けていはしないか。
60年代以後の近代建築が知の体系の最前線と連動する運動(ムーブメント)になりうるかどうかが問われている。

メタボリズム(新陳代謝、リサイクル)は、生命の時代の建築運動である。
機械の時代は、現世主義、唯物主義である。過去を破壊し、現世の物欲を謳歌し、先のこと(未来)を考えない。

メタボリズムは、「時間」の共生であり、過去も未来も現在と同価値と見る。未来へ開かれた建築であるとともに、歴史的遺産に対して尊敬の念を持つ。

今まで以上に、歴史的建築の保存が重視されるのは当然の流れである。

メタボリズムの建築は未来を予見し、将来の地球環境に対する環境・生態系の重視そしてリサイクル(循環)を実現しようとするものである。

メタボリズムの建築は、小さな建築のグループ(集合体)としての建築である。メタボリズムの都市は小さな都市のグループとしての都市である。
散逸的で、開放的であるばかりでは、低密度の都市が拡がり農耕地もまた拡大し、人類は地球上の森を失うのではないか。だから今、世界でスモールイズビューティフル猛信への反省が始まっているのだ。
どのようにコンパクトでサステナブルな建築や都市をつくるかが問われている。

1960年に提唱した人工土地を立体的に積むというメガストラクチャー(スーパードミノ)は、地球環境に対して、いかにコンパクトな建築、都市をつくるかという一つの挑戦であった。

中銀カプセルタワーはカプセルをコアで支えており、カプセルは25〜30年で取り替えることができるよう設計された。コアは現在でも新耐震の強度を持つ。

寒河江市役所は四本のコアと屋根の大梁というスーパーストラクチャー(スーパードミノ)で構成されている。

大阪府国際会議場は六本のコアと四枚のスーパースラブ(梁成5.5m)で構成されるスーパードミノであり、3000人のコンサートホールや一万人の宴会場でさえ、スーパードミノに組み込まれているインフィル(部品)と考えられている。
スーパースラブの中は設備機械室であり、公演中でさえ、設備機械の維持管理やリサイクルが可能である。

シンガポールで工事中のフュージョンポリスもコアと10回毎のスーパースラブで構成されたはじめてのスーパードミノ超高層建築である。

最近完成した国立新美術館も、4つのコアとスーパースラブ(梁成3.5mでメカニカルウェハーと呼んでいる)からなるスーパーストラクチャー(スーパー・ドミノ)である。2000mの無柱の展示空間を可能にし、床(スーパースラブ)からの直接空調をしている。

「場」の共生(シンクロニシティ)も60年以後の近代建築の大きなテーマだ。
国の風土ばかりではなく、ミクロな「場」にアイデンティがある。これは機械の時代の「普遍性」に代わって生命の時代の多様性、異質文化への共生を追及するものだ。

「場」の共生とは宗教性、民族性、地域性という要素ばかりではなく、より微分化され抽象化された「場」のアイデンティティー、気配、空気、雰囲気も含むものである。都市の中にも無数の場がある。

場を無視した近代建築の普遍性を乗り越えて、どのように「場」の共生が実現できるかが60年代以後の建築は問われている。

このテーマは別の表現でいえばグローバリズム(普遍性)とローカリズム(地域性)の共生だ。

伝統的な造型のコピーではなく、抽象的でグローバルな建築言語(幾何学)を使って、グローバリズムとローカリズム、歴史と現代の共生を実現できるのではないか。

近代建築の確得した抽象的幾何学という機械の時代の造型的な近代性を引き継ぎながら、記号論の手法も充分使って、「場」の共生を実現しようとする。

これが私が提案するアブストラクト・シンボリズムである。

広島現代美術館では日本の蔵の造型が抽象化され、小さな建築の集合(集落)が表現された。

和歌山近代美術館では、隣地に建つ和歌山城の積層する屋根が抽象的・記号的に引用されている。

愛媛県立総合科学博物館では小さな建築の集合としての建築という散逸構造としてのメタボリズムを強調するため、建築はさまざまな幾何学造型で構成されそれぞれにミクロな「場」の多様性を表現している。

奈良市写真美術館は新薬師の隣地である。歴史への深い尊敬の念を表し、美術館はロビーを除き地下に埋設され、歴史的な「場」と新しく創り出される「場」(アイデンティティ)との共生を目指している。

オランダのアムステルダムのゴッホ美術館も周辺の博物館広場、そして本館のもつ「場」との共生を図るため、計画の三分の二を地下に配置し、中間領域として地下に水の広場を作った。

国立新美術館は陸軍歩兵第三連隊が敷地一杯に建っていた。正面入り口ともなっていた連隊の建物のコーナー部分をその「場」を移動することなく外壁保存した。

又、国立新美術館を森の中の美術館したのは、この「場」が本来青山霊園、青山公園とつながる森であったからである。

そしてこの森と共生するため、どうしてもファザード(外壁)は透明であってほしかった。内部でもあり外部でもある中間領域をつくりたかった。

切り裂くような直線ではなく墨絵(スミエ)ボカシのようにフラクタル曲線とした。このような曲線、曲面は、生命の造型として1960年代より多用してきたものである。
ここでも近代建築の抽象幾何学の継承である。
60年から続けてきた生命の時代、共生とメタボリズムの集大成である。
KLIA(クアラルンプール国際空港)はグローバリズムとローカリズムの共生、「場」の共生のもう一つの挑戦であった。
「最先端の近代建築で、しかもイスラムの建築・文化を表現するものを」というマハティール首相の依頼は、まさに60年代以後の近代建築が乗り越えなければならないテーマである。

グローバリズムとローカリズムの共生だ。

ここで私はHPシェル(ハイパボリック・パラボロイド・シェル)という抽象的な幾何学曲線を組み合わせた。記号論的に引用することによって、イスラムの建築文化を抽象的に表現できないかというアブストラクト・シンボリズムのチャレンジである。

又、平面的に拡張とするプログラムはまさにメタボリズムとリサイクル(新陳代謝・成長循環)のテーマそのものであった。

KLIA(クアラルンプール国際空港)は「時間」の共生と「場」の共生という60年代以後の近代建築の運動を継承する生命の時代の共生とメタボリズムの集大成の建築となっている。

60年代の数多くの未来都市のスケッチのあと、クラスター(細胞)都市は菱野ニュータウン、藤沢ニュータウンとして完成した。

クラスターの周縁部にサービスネットワークを持つ都市は、これまでの中心があり、放射状の構造という伝統的都市構造からの転換であった。

又、藤沢ニュータウンは、農家を残し農地を残し、地形(樹)を保存した世界初の自然との共生、農村との共生が実現した。

2000年以後、カザフスタン新首都計画が実現へ向かい、人口150万人の新しい実験都市、中国の河南省鄭東新区の計画も第一期の実現が間近である。いずれも生命の時代の新しい都市の集大成となるだろう。

いずれも既存集落、河川、湿地帯等の自然や歴史を保存し、まず森をつくり、生態回廊をつくり、美しい河をつくる。

創られる自然は未来の大自然となり、今私たちが創っている建築・都市が未来の歴史的遺産となる。保存と創造の積み重ねによって地球を守っていく思想を持つことが、私たち建築家に荷せられた責任だと思う。